雄略天皇のあと、清寧(セイネイ)、顕宗(ケンゾウ)、仁賢(ニンケン)、武烈(ブレツ)と代が続きます。しかしこの間、皇統は急速に細っていきました。
清寧天皇には御子がなく、後継者が見つかりませんでした。そこで探し出されたのが、雄略天皇に父を殺され、播磨(今の兵庫)に身を隠して馬飼い・牛飼いとして暮らしていた二人の兄弟です。宴席で身分を明かした二人は迎えられ、弟が顕宗天皇、兄が仁賢天皇として相次いで即位しました。

その次の第二十五代・武烈天皇にも、跡を継ぐ御子がありませんでした。ここに至って、神武天皇から続いてきた皇統は完全に途絶える危機を迎えます。
困り果てた群臣たちは、遠い血筋をたどりました。そして越前(今の福井)にいた、応神天皇の五世の孫にあたる袁本杼命を探し出し、都へ迎え入れます。これが第二十六代・継体天皇です。

五世の孫という血縁は、あまりにも遠いものでした。そのため近代以降の研究では、ここで実際には王朝が交代したのではないか、という説が有力に語られてきました。古代史における最大の論点のひとつです。

古事記はこの経緯について、系譜を淡々と記すのみで、政治的な事情には触れません。しかしその簡潔さの奥に、国の根幹を揺るがす大きな動きが横たわっていたことは想像に難くありません。